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date 2006/9/28(木)16:32 ペルソナングラータさま いつも軽妙洒脱の話題に、争闘好みのことをいい出して申し訳ありません。 かつて南北朝論争というのがあって、孟子(春秋)の「天に二日なし」から、南朝が正統であって、北朝が潤統であるというのが趣旨でした。じっさいには後醍醐天皇による大覚寺統が、持明院統に優先すべきだというところからの主張の延長です。 そして後醍醐天皇はその根拠に朱子学を据えたんですね。肖像画をみても中国の天子のような格好をしていますよね。そして武士と儒教は両立しません。君子とは官僚または官僚予備軍であって、荘園管理人またはガードマンである武士とは水と油です。ところが江戸末には武士は官僚ただし世襲のようになって、江戸幕府が推薦したこともあって、なんとなく主流の学問になったようなところがありました。 江戸時代、公家は内職で家元をやっていました。例えば西園寺家は琵琶の家元です。そして近衛家は儒学の家元だったんですね。これも藤原氏初代の鎌足公がどうも儒学の祖(肖像画がそんな風ですね)であって、そこから来たようです。そして、近衛家は維新に乗り遅れたんですね。二条家や九条家は明治、大正の皇后を出しましたが筆頭の近衛家はお呼びがないんですね。そこで近衛家は京都の家を「陽明山荘」と呼び、霞山公は「東亜同文書院」をつくったんですね。そして、儒教と社会主義は相性がよく、勢い親独に走ります。これは現代中国人をみれば同様です。 ところが、昭和天皇は(いいにくいのですが)京都があまりお好きでなかったようです。九条節子がいじめたとか諸説あるのですが、どうも後醍醐的なもの建武中興から明治維新の間を否定する意識がおありになったのではないかと思います。昭和天皇のお好みの離宮は那須ですが、ここは関東的な概念ではあまり高級な別荘地ではありません。そして、京都の修学院離宮などは「文化財」として扱ってくださいということで、あまり行幸になりませんでした。とにかく即位式・大葬ともに京都でやらず「北」に行く指向がありました。 昭和天皇は後醍醐天皇に批判的であり、近衛文麿は後醍醐天皇や楠正成を評価したんですね。でも立憲君主という意識が強かったようですから、昭和天皇としては譲れない一線だったのでしょう。 別宮 |
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date 2006/9/28(木)21:16 別宮様 私の戯れ文章にご返事頂き、ありがとうございました。貴重なご教示に、いつも感謝いたしております。 さすがに西園寺公望公は、明治帝に「西園寺たるもの、琵琶を弾いて聞かせよ」とは言われなかったでしょうが(習ってる暇もなかったでしょうし…)、哲学やらマルクス主義に手を出した近衛文麿(シナにはまった父の篤麿も)は、家業という「因縁」からは抜け出せなかったのでしょうね。歌、笛、サッカー(飛鳥井家)等、華やかな他の摂家や精華家にくらべて、「儒学屋」ではかわいそうです。 たまたま手にした新刊書で、ファシズム時代の建築を扱った新書が出ていたのですが、独伊ソが民衆をひきつける派手な大建築プランに沸き立つ中、日本だけ「鉄骨50トン以上不許可」で、丸の内にバラックを林立させた、(しかも落雷で大延焼させたり…)、といわれて、情けなくなりました。「興亜院」も名前だけはえらそうなくせに木造バラックだったそうで、東京の帝の宮城のまん前に、貧乏な掘っ立て小屋を林立させるなどは、近衛内閣でなければ出来なかったかもしれませんね。日本にファシズムが存在したとすれば、世界で一番貧乏くさいファシズム国家といえるかもしれません。(スペイン、ポルトガルには勝ち?) 那須は恐ろしい「殺生石」の舞台でもありますが、即位前の昭和天皇が、英国王太子エドワード公をおもてなしした地でもあります。ご一緒にゴルフなされている写真は、日英同盟の精華の証として、やはり忘れられません。京都なんかに行幸されるより、よほど良いですね。 近衛家や正潤論の学者、あるいはクーデターを起こすような人間にとっては、後醍醐天皇はアイデンティティの支えなんでしょうけど、三種の神器を持って逃げ出して、返還合意後には「返したのはニセもんだ」と言い張ったり、無頼漢(悪党)とつるんだり、かなりチャイニーズな帝王でした。昭和帝がもし後醍醐帝のような人だったら、太平洋戦争もなかなか終わらず、マッカーサーが到着したら、吉野に逃げ込んだりして、新南北朝時代が… (と、あほな空想を…) ペルソナングラータ ちなみに、本は↓です。 |
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date 2006/9/28(木)22:01 別宮様,皆様,いつもお世話になっております。 夫婦とも,各々の勤務先から これまでの住居を引き払い,ただいま母の実家に仮住まいしております。 あと2日, さて,後醍醐天皇です。 わたしは,この天皇を低く評価していますが,それは, しかし,暗愚の君に忠誠を尽くしたことをもって,楠木正成を悪く言うのは如何なもの 『ナポレオンの戦場』の著者である柘植さんは,ナポレオンが退位宣言書に署名した時 正成の時代の武士の行動様式は,江戸時代のそれとは,かなり異なっていたようです。 この佐々木道誉は大物すぎるかもしれませんが,彼を時代の雰囲気を象徴する人物だと 正成の評価は,上がったり/下がったり,しました。 記憶に間違いがなければ,近代 正成への評価が難しいのは,彼が,征夷大将軍を介してではなく,直に天皇に仕えていた 前置きが長くなりすぎました。 結論めいたものを述べるとしましょう。 (4)は,仮説です。 弱い仮説。 非は理に勝たず・理は法に勝たず・・・でしたっけ, 明治政府が国定教科書で正成を美化したから国民大衆が正成を贔屓したとは必ずしも 大衆の贔屓の感情が実像に迫っているとは限りませんが(例:義経と頼朝),情に訴える 次は大阪からのアクセスになるでしょう。 湊川の古戦場跡も見てこようかしら。 今こそ皇室典範の改正に着手されたし!と新総理にのぞむ,渡来静 |
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date 2006/9/29(金)09:53 渡来さま 大阪ご転勤おめでとう御座います。じつは先日、大阪の高速湾岸線を走りまして、埋め立て地にあるゴミ焼場の建物が金ピカで飾られているのをみて度肝を抜かれました。これは他府県ではできないなと・・・。 楠正成の湊川の合戦ですが、太平記の解説本程度しか読んでいないので、いい加減なことしかいえません。 ですが、この問題は旧軍で政略(外交)と戦略(作戦)との関係で論じられているのが気になります。というのは日露戦争のあまり成功したとはいえない将軍、松川・井口がこれをいいだし、「重臣」の排撃に使っていることで、日本にとり極めて危険な題材であったと思います。 結論からいえば、作戦は常に外交(国家間の戦争)に従属させねばなりません。つまり不戦条約以前としても、外交的係争(領土・経済制裁・テロ・・・)を原因として作戦はたてられるべきです。シュリーフェンプランや真珠湾奇襲作戦のように具体的係争がない国へ攻め込んではなりません。これは同盟国を失い戦敗への早道であるとともに日本のような国ですと「メガ」戦争を誘発してしまいます。 後醍醐天皇が足利軍と戦えと命令されたならば、楠は従うか主従関係を打ち切るしかありません。つまり、第三の道、主従関係を維持したままで自分の戦争を始めては(構いませんが)、足利方と天皇方のほかの第三勢力ができたというだけで歴史的には意味がありません。そして天皇の命令は天皇方主力の新田軍の増援そして決戦であったようです。太平記の数はいい加減だと思いますが、それでも新田軍に比べれば、楠軍は少数です。そして足利軍の個別にたいして港川で伏兵をもって横撃したようですね。 楠正成にしてもまったく成算のない戦いではなかったと思いますが、楠の得意な戦いではなかったでしょう。というのは、当時の野戦における主力部隊は長弓隊だったと思います。すると楠の動員できる兵力は寡少であったと推定されます(ですから山城戦を挑んだ)。つまり、天皇方からみれば主力たる新田軍の去就が重要であって、楠軍はその撤退なり決戦に寄与するという役割しか果たせないという見切りがあったのでしょう。 それをおいて当時の戦争は長弓隊の数で終了です。そして理由はわかりませんが、当時の合戦の結果は、親兄弟同士でも大量殺戮を伴うのが普通です。これだと戦争ばかりやってられません。合戦の数は多いとして人間の命は一つです。ここからは想像ですが、足利と新田は互いの数を数えて適当なところで、どちらかが「見逃げ」で終わらせる積もりだったのではないでしょうか。そして、この観念を打ち破ったのが楠正成です。つまりある意味、関東の合戦ルール(北部九州の武士というのは承久の変以来、鎌倉御家人)に従わなかったのでは? そして、足利義満時代くらいから突然、関東は全国の軍事的バランスを左右する位置から転落しています。関東の扇ガ谷上杉、山内上杉の合戦、太田道潅など誠にスケールが小さく戦国時代の合戦の先駆をなしていないのです。そして関東の覇者は伊勢からきたといわれる後北条氏です。後北条氏の特色は山城を組み合わせた防衛ラインであって、長弓主体の機動戦ではありませんでした。 楠正成は「山城戦術」を編み出した画期的人物でした。その意味で関東の伝統的戦術を打ち破り、最終的に鎌倉・足利時代を終焉させ、荘園経済から自作農経済に押し上げ社会を一歩発展させた人物だと思います(これと比較すれば土一揆だとか土倉一揆だとか、くだらぬ事件です)。幼少から弓矢の訓練をうけたプロフェショナルでなくとも武士になれるような時代を切り開いたんですね。その意味で関西人が武力のみで大きい顔をしていた関東武士を打倒した楠に喝采をおくるのは至極当然だと思います。 そして後醍醐天皇です。この人のやるべきことは自らが覇者になることではなくて、スキルフルに軍事バランスを維持することではないでしょうか?昭和天皇が近衛から紹介され平泉澄から後醍醐天皇についてのご進講をうけたことがありました。平泉は儒学的見地から後醍醐天皇をベタ誉めしました。 これにたいし昭和天皇は「後醍醐天皇が英邁であったことは否定しない。だが、武士への恩賞を誤り、平和の維持に失敗したではないか」と質問し、平泉は答えられなかったそうです。皇国史観とはこの程度のものです。昭和天皇への歴史のご進講は「汗三斗」だったそうです。 別宮 |
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date 2006/9/29(金)09:59 別宮様 ペルソナングラータ様 渡来静様 後醍醐天皇が異質だ(何か違うぞから明らかにこ奴ヘン!まで)という認識は当時からあったと思います。論語読みに耽溺した天皇や親王は数いますが、実際に実行したのはこの人だけです。 実際のところ正直に言って儒教は日本の天皇にはそぐいません。常に王朝交代を想定せねばならないでは、万世一系も何もあったものではないのです。また、逆に革命では血縁関係が薄い、ないしは絶無なのが現王朝を打倒したほうがわかりやすい部分もあります。 また、儒教秩序では法的規律は排除されますから、親政によってまず後醍醐自身への忠誠というものを、公家、武家問わず要求することになったと思います。 さて、楠木党などがそんな後醍醐天皇に従ったのはなぜか?考えねばなりません。正成が幕府に反抗したこと、その後、倒幕に加担した御家人たちがやはり後醍醐天皇に弓引いたことは、実は彼らの中ではなんら矛盾がなかったのではないでしょうか。 当時の武士の求めたこととは御成敗式目の完全な実施であったと想像します。つまり幕府に機能不全が生じたのを見て、不安になったのでしょう。そして、北畠親房式にこれを儒教概念で「失寵」と読み替えてイデオローグしたのが後醍醐天皇周辺にいたと言うことでしょう。 このへんの論理は そして、儒教においては個人従属重視です。つまり楠木党は後醍醐天皇自身との主従関係となったと見たのでしょうし、天皇自身も他の地方の武士にこれを求めたのでしょう。しかし、これは吉野、河内という位置関係なればよいにしても、例えば北関東の足利などにはつらいものがあります。事実中千代の乱以後の新田との係争を足利は調停先を恃めず武力行使によって独力で決着させねばなりませんでした。これは「反革命」に転じざるをえないものでしょう。 正統論は革命好きにはコタえられないものがあります。本来日の目をみる側が不当に押さえられている、がベースです。対立軸というものでしか世界把握ができません。近衛の「滅私奉公」はその意味で彼の本音でしょう。 珍しくTBSのニュース23を見て、はあ、このヒトかあ、と思った困ぺい糖 |
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date 2006/9/29(金)10:40 ペルソナングラータさま 西園寺が戊辰戦争で山陰総督をやって京都に戻ると、家宰から「琵琶をやりなされ」といわれ、カンカンになって怒っています。怒ったあげく、琵琶じゃなくてミルの『立志論』の講義で門人を集めてみせると、屋敷で塾を始めた(弟は養子で住友の当主になっていますから、金に困ったわけではない)そうです。 これが、現在の立命館大学です。もっとも孫の公一が祖父の悪口をいって楽しんでいますし、曾孫は『朝日新聞』記者ですね。でも結局西園寺は、明治天皇に懇請してフランスに行きました。 ファシズムですが、ムッソリーニがファシズムの創始者であるとして、ポルトガル、スペイン、ギリシャ、日本に波及したとして、建築物という点でどうでしょうか?というのは、ムッソリーニの体操とか馬術とかスポーツは力を入れますが、金を使わないものばかりで「均衡財政」をやりますよね。日本もまったく同じで軍部は財政のことなどわかりませんから、均衡財政の下、軍拡をやろうとしました。これだと機甲師団は無理ですし、多少古びた武器でも使えとなりますよね。 ところがヒトラーのナチズムというのはまったく違います。まず赤字財政を平気ですし、必ずしも軍事予算中心ではありません。チャーチルはドイツの航空機予算を四倍ほど過大に見積もっていました。そして発注の仕方が独特で、国の指値で発注し、「うけねば潰す」という態度をとりました。これは現代日本の談合の反対のようなものです。飛行機だと各社にコンペをやらせ、国が最良と認めたものを、勝手に値段を決め、機数を決め、銀行に設備資金貸し出しを強要するわけです。ただ、その範囲で飛行機会社の自主性は確保されます。 ナチズムが軍備以外考えなかったというのはウソで、高速道路から自然保護まであらゆる近代的施策を実行しています。ヒトラーはこれについて「アメリカ的生活様式に移るべきだ」といっています。こういった要素は日伊にはないのでは?ムッソリーニは抽象画・裸体画など排撃してますよね、東條英機がどうだったかといえば、芸術についていえばムッソリーニ以下でしょう。ところが、ヒトラーは抽象画を誉め、裸体画は自ら描いています。ヒトラーは確かに(悪の)進歩であったと思います。日伊は反動でしょう。あるいは日伊は失うべき過去があるが、ドイツ(やアメリカ)では白紙から絵が描けたのでは? でも、陸軍が新丸ビルのところを「防火用水」確保のため池にしておいたというのは、金のかからぬ方法ですね。 別宮 |
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date 2006/9/29(金)11:48 別宮さま、困ぺい糖さま、わりこみ、失礼します。 この虎めは足立区の産ですが、 後醍醐天皇に関する部分をスッ飛ばして、申しあげます。柘植久慶氏が語るとおり、自分も、正成は後醍醐天皇を見限る しかし、正成は、後醍醐天皇を見捨てませんでした。それによって、日本人の心の琴線に触れる人物になったわけです。 後醍醐天皇が将軍も幕府も不要と考えていたことは、たぶん間違いないでしょう。一方、尊氏や彼に従う武士たちは、鎌倉幕府 軍事面でいうと、後醍醐天皇は「出撃せよ」と正成に命令を下した、しかし、その前に、軍事のプロである正成の意見を聴いた。 出処進退、まことに、迷うこと、迷うこと! 正成が、自身の栄達と楠木家の保全を考えて行動していれば、『太平記』は無かった |
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date 2006/9/29(金)21:30 別宮様 西園寺公のエピソードには笑ってしまいましたが、本当に琵琶をやらされかけたんですね… これも明治の封建制打破の良いエピソードですが、孫に判らないとは、はなはだ残念です。 ファシズムのイタリアですが、ムッソリーニは「ローマの大改造」というのを挙行しました。コロッセオの前に大通りを作り、バチカンの前も、それまで建っていた建物を毀し、大通りを作って悠久のテヴェレ川からサンピエトロ寺院を見通せるようにしました。 ほかに郊外に大学都市を作った功績もあるのですが、基本的にローマ改造とは、物を作るのではなくてあくまでも「壊す」のがメインですね。ローマ時代の遺跡を埋めて道路を作り、ルネサンス・バロック時代の家屋をつぶして、モダンさとローマ時代的な栄光を一挙にゲットしようとした、というのがミソです。中世的ローマって、実は結構田舎町なんですね。そして、今日ファシズム的大建築として知られるローマのヴィットリオ=エマヌエレ二世紀念堂(無名戦士の墓)も、ミラノの大中央駅も、実はファシズム時代前に完工あるいは着工されていたものです。ムッソリーニはうまく利用した、というところでしょう。ローマの栄光は、ちゃんとアピールできました。 一方、ヒトラーの根性は据わっていますね。(彼の絵がまた発見されましたが、画才の方は、あの人、ヘナチョコ何でもアリ派だったような…)。ムッソリーニは元社会主義者でありながら、中世的な古い概念である「国王に対する忠誠」や「社会正義」その他を捨てきれなかったため、国王も裏切れず、かの43年の運命のファシスト大評議会前に、仲間を裏切る事もできませんでした。(ひどいことしたのは、愛人ぺタッチの旦那ぐらいか…) ヒトラーなら、早々レームたちのように始末できたでしょう。ドイツ国土に対しても、大鉈を揮えたのは、彼の冷血、冷徹さのおかげかも知れませんね。 ペルソナングラータ |
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date 2006/9/30(土)08:15 皆様 後醍醐天皇と楠木正成についての云々は、とてもとても皆様方に伍して議論する知識等御座いません。 メロディーも流麗ですし、歌詞も文語調で格調の高い昨今ではとても望み得ない良いものだと関心しているのですが。 |
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date 2006/9/30(土)08:58 ペルソナングラータさま じつはイタリアにはいったことがありません。どうもフランス人は英語を喋る日本人を睨みつけるところがあって、イタリア人も同じかと思ってしまうのが原因です。 いかないと、「ローマの休日」が、変わらぬローマと思うんですが、そんなはずはありませんよね。以前英語のネープルズがナポリより古形をとどめていると聞き驚きましたが、次のオリンピックでチューリンかトリノかどちらかのようなもので厳しいですよね。要は、日本の地図帳はイタリア原音に近い(?)んですが、これが英米社会で違い、大人になると環境不適応になるんでしょう。 それと、現代日本人が英語(と中国語?)のみが外国語というのが首を傾げますよね。伊吹文相が英語を小学校で教えることを義務化することに反対したのでまあ安心です。中国語表記でピンインという音の表現方法があるのですが、「ローマ字による表音化」と書いたら「アルファベットによる表音」と直してきた編集者がいました。英語でもロマナイゼーションといいラテンアルファベットというんですが、ABCはアルファベットで英語だと思っている日本人が増えているんでしょう。 欧米人からみるとローマは世界の中心でイタリアはヨーロッパの果てなんでしょうね。ローマンホリディズで響きがなんともで、イタリアンホリディズだと労働者の夏季休暇です。ムッソリーニで気になるのは「ローマの栄光」であって「イタリアの栄光」でないことです。あるいはローマの栄光をもってイタリアという国家をつくるということでしょうか。今でも富裕な場所が北部連合をつくるくらいですから、いっちょ外征をやって国内世論をまとめたくなるのはわからないでもありません。でも、ベニスやジェノアという都市がオスマン帝国と対抗していたことを考えれば、ピードモントのイタリーもムッソリーニのローマ帝国も元気がない印象です。 ヒトラーとムッソリーニの違いはその通りです。ヒトラーは本当に社会主義者であって、ブルジョワが嫌いでした。ある意味で心にゆとりがなく、近代合理主義のようなものを追及したんでしょう。ヒトラーの建築物はどことなくシカゴの古いビルに似ています。また、昭和初期に流行った「帝冠様式」という建物があります。九段会館(軍人会館)や神奈川県庁、関東軍本部などが代表的ですが、ビルの上に中世城郭をのせたような奇抜なデザインです。ヒトラーであればこういう無駄はやらないでしょうね。日伊人はヒトラーの真似をしようとしても出来ないでしょう。 別宮 |
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date 2006/9/30(土)09:50 KT様へ KT> 後醍醐天皇に関する部分をスッ飛ばして、申しあげます。柘植久慶氏が語るとおり、自分も、正成は後醍醐天皇を見限る 成る程、と一瞬思ったのですが、・・・。 ですから、楠木兄弟が湊川前に足利方に寝返っても、せいぜい一人の有力武将の寝返りで、そんなに大きな影響はなかったんじゃあないかと、考えるのですが、如何でしょうか? med |
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date 2006/9/30(土)12:51 med様 KT様 どうしても、作戦論に行ってしまって申し訳ないのですが、湊川合戦は敵が2手に分かれて、足利尊氏勢は海路で今の神戸市生田付近に上陸、一方の直義勢が陸路西方から進撃です。これを防御するために湊川を会戦場に選んだのは後醍醐天皇自身だったといわれます。 ところが尊氏勢が上陸すると退路を断たれる危険を感じたとして東方に布陣した新田勢が後退、楠木勢は陸海双方からの敵の全力を受ける格好になりました。こうなると楠木必敗です。また、このときの義貞の去就から、新田寝返りという説が根強く発生することになりました。 ここらあたりは、近代に入ってからの参謀本部説などの後知恵史観のおそれもありますが、足利よりの書「梅松論」(http://homepage1.nifty.com/sira/baisyouron/baisyou42.htmlに現代語訳があります)でも確認できるところですから、大筋間違いはないでしょう。 実は、この段階まで、正成は勝ちを取るつもりでいたと思います。敵兵力多数が、しかし2分、しかも主攻と見られる尊氏勢はより脆弱性のある海上からです。それこそこれは弓を並べて水際撃破です。あとは陸路の直義勢をことの終わった新田勢に加勢させれば済むことです。梅松論の記述でも一の谷出口に向けて重層防備を敷いていた様が見て取れます。 私は湊川以前に新田が赤穂の白旗城攻めに失敗していたことを正成が重視して、播磨でなくもっと京都よりでの防衛を進言して却下されたのではないかと考えています。つまり、疲れた新田勢では決戦戦力として不足と見たのかもしれません。したがって後詰めに回したのではないでしょうか。 ところで私自身は有名な桜井の場は実際にそれに近い出来事がどこかであったと思っています。つまり、正成としては後醍醐に対して個人的に服従を決めており、息子の正行(諸説ありますが、20才前後の威丈夫になっていたと思われます)に河内での策源地保持を依頼したのだと思います。そして正行も異存なしだったのでしょう。 困ぺい糖 |
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date 2006/9/30(土)20:25 KTさま、medさま、なまいきなこと言って、失礼します。 「桜井の訣別」は、いい歌詞だと思います。両親が文部省唱歌集を持っているので、メロディは知りませんが、歌詞は知っています。 後醍醐陣営の総大将は、たぶん、新田義貞でしょう。楠木正成がいかに名将でも、足利尊氏に対抗できる家柄の人ということなら、新田義貞 問題は将帥としての新田義貞の能力ですが、何冊か本を読んだかぎりでは、どうも、足利尊氏におよばない武将だったらしい。一方、名将の 楠木親子が忠臣という評価を得たのは、敗死(殉死?)したからだとは思います。でも、梅松論が正成をほめているのは、彼が「賢才武略の士」 後醍醐陣営には正成に代わる将はいない、となれば、正成が後醍醐陣営から去れば、どっちにつこうか迷っていた武士は、やっぱり、尊氏の陣営 足利尊氏は、湊川の合戦の前に、持明院統の天皇・上皇をいただくことに成功していました。後醍醐天皇に瑕疵がないのと同様、持明院統の人も くわえて、足利尊氏の方が自分たちの利益を守ってくれそうだ、となれば、尊氏に味方する武士はますます増えたのではないでしょうか。湊川の 楠木正成が鎌倉幕府に反旗をひるがえそうと決意したのが、いつなのか、なぜなのか、それは、わかりません。そして、もうひとつ、正成が従来 どうも、とりとめのないことを書いて、失礼しました。またまたレイトショウを見に行く直前の、シシィ。 |
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date 2006/9/30(土)23:23 medさま。 >朝鮮戦争の中国軍参戦時には連合軍側にはまともな戦線が形成されていません。 後退し戦線を立て直そうとした国連軍はずるずると下がり続け、ソウルの再奪還をゆるしてからようやく停止に成功しています。 この一進一退状況で、防御に入ったときの米軍が行った戦術が、前回紹介した自軍の掩蓋陣地にたいする曳火射撃です。 私は、この段階で砲兵を中心とした火力を有効に構成できるようになり また、強大な火力の支援をうけた米軍の攻撃が順調に進捗しなかった訳ですが、 |
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date 2006/9/30(土)23:29 medさま。 >シシリーの例ですが、海岸に突撃してきたのはティーガー戦車だけではありません。他の戦車も、そして歩兵も伴っていました。 >ちなみに、当時の兵士の証言では直後には支援砲撃が何処から行われたかわからず、つまり軍艦は見えていなかったようで、「新しい大砲はすごい威力だ」と言っていたとか。 非常に興味深い資料の提供、ありがとうございました。おかげでこのシシリー海岸での艦砲射撃の状況について私自身が納得できるイメージを持つことができました。 私は今まで、このシシリーでの艦砲射撃について、タイガー戦車等を含むドイツ軍部隊が連合軍の海岸堡設定地域に進入、そこの部隊等に対して蹂躙を仕掛けた状況、 私は、この思いこみから、ここで行われた艦砲射撃は近接した駆逐艦クラスの主砲による砲側照準による射撃だと考えていた次第です。 なぜこう思い込んだかといいますと、遠距離からの山なりの弾道による射撃では射撃の精度が低いものになるため、 私がこのような射撃はあり得ない、というのは、味方を自軍の弾で殺傷することに対する良心の抵抗からではありません。 こういう状況でも、敵の戦力の主力が著明な点目標であり、それに対して中口径クラスの火砲(陸の感覚)の低伸する弾道による徹甲弾・徹甲榴弾を用いた射撃を行うなら、 対して、山なりの弾道による射撃は、射撃の精度が低伸する弾道による射撃の精度より格段に落ちるため、 我の海岸堡設定地域における彼我の戦闘能力をもつ部隊同士が混交した状況での山なりの弾道による地域目標射撃は、 medさまの文によれば、重巡洋艦の、間接射撃による、おそらくは主砲を用いた山なりの弾道を経る榴弾(まず、瞬発信管でしょう)をつかった地域目標射撃が行われたことになります。戦車に対して効果があったのなら、相当の弾数を射耗しているはずです。 このことを前提とすれば、ドイツ軍主力は連合軍の海岸堡設定地域に進入していなかったのです。 連合軍の前方の部隊等を撃破したドイツ軍の戦車を中心とした部隊が、連合軍の海岸堡設定地域の地上目標を戦車等の有効射程に入れるかどうかの状況での、陣前のエリアに対する防御射撃、いわゆる弾幕的な射撃だったのではないでしょうか。 そこに撃破されて戦闘力をうしなった連合軍部隊・兵士がいたために、彼我混交した状態と表現されてきたものだと考えると、 海岸堡設定地域にいた兵が、「すごい威力」の、「役に立つ」射撃と言っているのもこう考えると納得できます。 自分が重巡洋艦の主砲の榴弾・瞬発による、つるべ打ちの目標になっていたら、このような呑気なセリフはいえるものではありません。 |
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date 2006/10/1(日)01:22 別宮様 安倍内閣誕生に当って、シラクが真っ先に(まだ成立前だったけど…)「心のこもったお祝い」をエリゼ宮のホームページに載せていたことはうれしい事ですが、でもフランス人の行動はやはり時々理解不能ですね。私のような、「どう見ても日本人」というのを捕まえて、いきなり背後からVous avez l'heure s.v.p."「時計もってますか」(時間分かりますか?)って言ってきますから、驚きます。懐中時計を持ってるときは、プラプラ無言でそれを見せて立ち去るんですが… 一方、イタリア人は日本人並に英語が下手ですから、フレンドリーに話が進みます。 トリノなどは、日本の地図はイタリア語(トリーノと発音)に近く、トリノ方言ではTurin(テュリーン、Uはウムラウト発音)で、英仏語と同じですから、理解できません。ミラノも「ミラン」Milanだし、ベネチアも「ベニス」に近い「ベネーシャ」です。おそらく中世の現地表記から英仏語に流れたんでしょうね。イタリア語は文語から派生したきわめて人工的な言語なんですが、地名については、けっこう近代の文献でも異表記(フィレンツェをFlorenzaフロレンツァとしたり、ジェノバをGenua,Genoaジェヌアとしたり、など)が見られます。 帝冠様式ですが、日本は内地のほか、満州国の新京などにシナ風、日本風、ごちゃ混ぜにけっこう作りました。(東京には木造庁舎、でしたが…) そのためでしょうか、中国はまだこの80年前の流行が有効のようです。北京西駅の写真を見たときは、心底あきれました… (「ナイスな『ジャパニーズ・インペリアルスタイル・リバイバル』だね」、と中国人に言えば、どんな顔をするでしょうね。) お役人の民族主義アピール方法のアイデアのレベルが、戦前の日本と今の中国では所詮このぐらいのものなんでしょうね。 http://www.chinatrg.com/zz-003.html ペルソナングラータ |
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date 2006/10/1(日)08:12 別宮様 ペルソナン・グラータ様 帝冠様式は志村けんのバカ殿が作ったのかと言いたくなるほど間抜けです。 ムッソリーニというとローマの新都心エウルは見逃せません。 よしくん |
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date 2006/10/1(日)08:46 ペルソナングラータさま 大体、外国語は店員でつまづくといわれます。ニューヨークで、ウェートレスにスプーンを頼んだらコカ・コーラがでてきた、ホテルのメイドに風呂の調子が悪いといったら、大きいボウルを被せた、巨大な魚がでてきて、二度と英語に興味をもつのはやめたという人がいました。でも、こういうのは店員の方にやる気がなく、真面目にきこうとしてないんですね。 一方、フランスで嫌になるのは、アイスクリームを重ねないで1個だけ頼むごときで、シングルというと必ず「サンプラ」と言い返してきます。シンプルじゃない、シングルだといってもぶっきら棒にサンプラといって突き出してきます。これがイールドフランスじゃなくて、カレーで起きるから腹がたちます。この人たちはホスピタリティという言葉を知らないのではないかと思えます。 でも、イタリアの地名はますます意外感がします。地名は歴史学では基本中の基本として変わらないものとして扱われます。古代高句麗語や古アイヌ語の研究というのはだいたい地名からです。そして、中国人が東京を「トンチン」はいいですが宮崎を「ゴンチー」といえばさっぱりわかりません。また、ドイツ語でブタペストをオーフェンというのは、ドイツ人も苦労したなと思わせるだけです(ベニスをベネディッヒというのはオーストリア・ドイツ人の意地か?)。その点でイタリアの古地名がむしろ外国語の方に似ているのは奇観ですね。そのうえ、英語地名で日本人に馴染みがあるのがありますね。 極東でも、韓国人が肩に力が入ってソウルを漢陽→漢城→首爾と中国人にいって変えさせたようですね。京城という立派な地名にしておけば問題ないんですけどもね(京城は日本人がつくったのではなくて、反中朝鮮人は以前からそう呼んでいた)。でもソウルを流れる川は漢江ですから、以前、漢の属国であったことは簡単にわかります。台湾の高雄(ガオシュン)が日本人が「打狗」(ターカオ、犬タタキ)を変えて造語したというので驚きました。これ京都にある山ですよね?東京にも高雄山というのがありますが、真似したんでしょうね。でも、アメリカにいくとニューヨークとかニューロンドンとかいい加減な地名が多いですね。カリフォルニアにヒロシマだのカマクラというのがあったのにも驚きましたが・・・。 帝冠様式は品がないですよね。上野の博物館や京都市美術館もこれのようですが「××文化財」に指定されて壊せないんでしょうね。これ確かに役所建築が多いですから「民族主義」鼓舞が目的でしょう。神奈川県庁・静岡県庁・愛知県庁を3大帝冠というらしいですが、どうも文化と伝統がないところに固まっていますよね。東京都旧庁舎は日本赤十字社の隣で、皇后陛下が名誉総裁ということで、それより高く立派なものをつくってはまずかろうというので、鉄筋バラックになったもので、太田道潅の銅像で僅かに気合が入っていましたが、中央官庁に勝負に出るなど滅相もない、ということでしょう。今度の新宿庁舎もバブルそのもので品がないこと夥しいですし、職員に汚いのが多いらしく、中は年々汚れていきますね。 それと驚くのが、韓国の青瓦台と呼ばれる大統領府、北朝鮮平壌の金日成広場前の人民大会堂がこれですよね。日本の帝冠様式はそれでも表面がベージュの煉瓦に黒い屋根が一般的ですが、朝鮮モノは白壁に青瓦ですから、なんともいやはやです。 別宮 |
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date 2006/10/1(日)09:49 ペルソナ・ングラータ様 私自身 音楽や絵などの芸術的な才能はほぼ皆無に等しいのですが |
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date 2006/10/1(日)15:47 別宮様、よしくん様、ロック様 別宮様、フランス語で、二重(Double)の反対語はSimpleなんです。許してあげてください。テニスも、一人はEn simpleですから… (でも、フランス人も、ロシア人のようにやっぱりガンコですから困りますね…) どうも、1930年代は、日本人の(建築界の)美意識が、かなり破綻していた時期のようですね… この時代を代表する人物に伊藤忠太という大建築家がいますが、ヨーロッパに行かずにアジアをさすらいました。この人の作品は、平安神宮や明治神宮、旧二条駅舎(旧宇都宮駅の図面から作られた)や靖国神社の正門など、木造は素晴らしいのですが、一方コンクリ作りは、「築地本願寺」や「祇園閣」(なぜか、祇園祭の鉾の形をしている、京都で一番景観に合わない建物)など、なんか変なものが多いようです。 昔からずっと気になっていたんですが、青瓦台も、取り壊された朝鮮総督府と同じく日本人が作った建物のはずです。(日本のマスコミは、けっしてこれを言いませんね…)。 朝鮮総督府の建物は、力強いジャイアントオーダー(多数の階を一気に貫いた柱で建物全体をまとめる方式、ミケランジェロが得意とした)が多用された、貫禄のある建物だったのですが、どうも、朝鮮人の美意識では、つまらない建物の方に価値あり、なのでしょう。解体時にはテレビで、「気の流れの中心にあるから、良くない云々」とか言ってましたがね… (京都は「気の中心」にあったはずの大極殿をあっさり東側の現京都御所の場所に移転させました、日本人はつまらない迷信なんか、信じませんよね。) 伊東の作った「築地本願寺」や「湯島聖堂」の雰囲気と、青瓦台、なんか似てますよね。 ともあれ、「京城」と同じで、変更時に中途半端な理屈をつけるから、最後まで事実を隠蔽、あるいは嘘をつく羽目になります。 世界の地名の中で、個人的に面白いなと思うのは、ニュー・カレドニアです。カレドニアCaledoniaはラテン語でブリタニアの北にあたる地名ですから、スコットランドですね。なぜ仏領の太平洋の(暑い)島が、「新スコットランド」なんでしょうかね… 朝鮮の地名も、全部「新東京」「新横浜」「新大阪」エトセトラ(なんか、新幹線の駅みたいですが…)に変更させておけば良かったかもしれません。 ヒトラーの絵は、今回ベルギーで出てきたのについては「印象派くずれ」、でした。以前見たウィーン時代のものは細密画です。スタイルがバラバラですが、生涯、何枚書いたんでしょうかね… ベルギーのものは、おそらく第一次大戦のときのものですから、戦場での休日の暇つぶしだったのかもしれません。どれも、なんかエゴの主張がない絵ですね。 ペルソナングラータ |
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date 2006/10/1(日)17:40 みなさま 学生時代に史跡である古墳・万葉歌碑等をバイクに乗って見学に行くと、道路と田んぼしかない所に、 後から気づいたのですが、浄土真宗の納骨堂だったんです。築地本願寺と同じく、古代インド様式と 愛知県庁はすごいですね。「ザ・田舎」と建物が主張しています。豊田市のトヨタ本社(3階建て)の3階 朝鮮総督府は博物館になっていて、解体前に見学したのですが、それほど悪い印象は無いですね。 建築にも流行があるでしょうが、マンションや一戸建てを見て、「ああ〜20年前にはやってたカタチだなぁ〜」 建築科の教授の家を訪問したら、その家がやけに西洋を主張していて周囲の住宅から浮き上がって見えた黒田です。 |
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date 2006/10/1(日)21:49 ペルソナングラータさま 黒田さま 死んだ伯父が、築地の仲買をやっていて、ちょうど堀を隔てた反対側に事務所があり、築地本願寺をひがなながめたことがありますが、あれ駄目ですかね?天邪鬼のようですが、(立派な)建築物は無駄がないと成り立ちませんよね。震災のあとで、あれだけの気合のあるものをつくれるんですから本願寺はすごいと思いましたが・・・。 それにバイエルンのルードウィヒ狂王のノイシュバンシュタイン城にも、グロテスクという洞窟のような部屋がありますから、多少の気味悪さは当時つきものだったのでは?祇園閣も駄目でしょうか?装飾過多ではありますが、私有財産ですから。イギリスの金持ちにもフォリーとかいって、パンテノン宮殿の上の藁葺き屋根をのせて喜んでいるのがいますし・・・。あえていえば、京都以外にあればうけるのでは? 朝鮮総督府は、日本橋にある三井本館に似ています。こちらは銀行建築で、団琢磨が正面玄関で暗殺されていますから縁起が悪いですが、ジャイアント造りは初めて知りましたが、4階くらいまで全館吹き抜けで、外観は柱が周りにたつパラティナ様式です。でも中に入ると、柱が異様に太くて、かつ多くて、無駄なものをと思わされます。でも規模は総督府より大きいですね。 中朝人に迷信狂は常軌を逸していますよね。風水とかいって本気ですもんね。でも治らないでしょう。 黒田さま、和洋折衷は中々味わい深いものがありますぞ。虫を我慢して縁側で日向ぼっこをするためオール和室、玄関を引き戸にする。入った右側には洋室をつくって、応接間にし、暖炉(ただし飾り)をおいて、縦長窓にはステンドグラスをはめ込むと、これぞ日本人の住処ですぞ。今やると破産しますが・・・。 別宮 |
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date 2006/10/1(日)22:04 betsumiya> そして、中国人が東京を「トンチン」はいいですが宮崎を「ゴンチー」といえばさっぱりわかりません。 中国人と日本の話をして困るのは地名と人名です。彼らは漢字の発音でしか覚えていませんから例えば池袋、小泉などの人名、地名は日本語のそれとはまったく違います。何を言っているか分からなくて筆談してようやく分かるということがしばしばあります。中国人がアメリカ人などの欧米人の名前を漢字で書くと矢鱈と長くなり6字くらいはざらです。平仮名、カタカナを発明してくれたわれらの先祖に感謝します。 |
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date 2006/10/1(日)23:36 別宮様 築地本願寺は、80年代に蜷川幸雄が彼のお芝居の舞台(オイディプス王)で使ったりしてますね。変ですけど、もちろん面白いとも言えなくはありません。(祇園閣は、頭に鉾の頭≒矛を載せなければ、良い塔なんですが… とんがった物、京都では目立ちますね…) グロテスクは、イタリア語から来る言葉で、もともとの意味は「洞窟風」です。ラファエロがネロの「黄金宮」を掘り出したとき、そのローマ時代の室内装飾を真似して始めたものが、グロテスク模様といわれるようになりました。埋まっていたので、最初はグロッタ(洞窟)と勘違いしたみたいですね。(ローマは遺跡が多すぎて地下鉄が掘れない…) 19世紀の反古典主義の流れの中、ローマ的(ロマネスク=バロック=ロマンチック)な物として、再び人気が出たようです。 http://sv.wikipedia.org/wiki/Bild:Grotesque.jpg 和洋折衷も、長崎のグラバー邸や長野開智学校のように、よく消化できているのはいいものです(個人の趣味もありますが…)。伊東は、どうもキャリアの上で陸軍の建築課とかかわりがあったらしく、そこらへんが気になります。靖国の就遊館にも関係があるようですね。 話が脱線しすぎなので、このあたりで。 ペルソナングラータ |
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date 2006/10/2(月)08:32 ロックさま ヒトラーの絵は今のところ300点以上確認されていますが、スコットランド人某がそのうち半分以上所有しているといわれます。 その中の大半はウィーン放浪時代のもので、生活のため絵葉書から描き起こしたものとされます。ただ、街頭絵師であっても、「画家」だけで生計をたてるのは容易ではなく、それができたことは画才はあったという評価になる原因となっています。 そういったことで、この時代、また次のミュンヘン時代の絵は町の風景画が大半です。だいたい10号で500万円程度で売り買いされているようです。ただ、普通の画家と異なり、有名人の評価が加わりますので、価格で評価も難しいと思います。 日本で紹介されている絵はこれが中心で誤解されていますが、生活のためではない絵も残っていて、これは色使いなど評価できるのではないでしょうか?これまで日本の雑誌などでは、ウィーン、ミュンヘン時代しか紹介されていませんから、難しいことはあると思います。まだ、日本の出版界ではヒトラー絵の評価はややタブーになっているのでしょう。 ただ、ヒトラーの政治的業績とは著しく異なり「エゴのようなものがない」は鋭い評価だと思います。また誰かの焼き直しとはとても思えません。ヒトラーの経歴は現代日本でいえば、「灘高校」をドロップアウトして「芸大」に落ちたようなものです。こういう人間は「模倣」などやり続けることなどできますまい。 別宮 |
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date 2006/10/2(月)08:42 別宮様 ペルソナングラータ様 築地本願寺がコンクリ要塞なのは大震災の教訓からかもしれません。少なくともぶっ倒れることはあっても燃えません。 遊就館の件は初めて聞きますが、旧遊就館の内部は鎌倉の八幡宮宝物館みたいな雰囲気でした。今のはバブル期の県立美術館みたいですね。 むしろ、最近の関心は修理の終わった上野の国立博物館表慶館のほうです。こっちは明治42年建設で、ドームがしゃっぽに乗ってます。 神奈川の巨大建造物は横浜がみなとみらい(三菱一族だけでガラガラ、空き地はぺんぺん草)、レンガ館(日活アクションの悪役が密輸取引するような古倉庫をレトロとここでは呼ぶらしい)、県立歴博、県庁(一応帝室様式…らしい)といった学研のムーが喜びそうなオーパーツが一杯見られます。 県央に行くと輸血拒否の某教団の大病院みたいな本部ビルとか、河川敷のコンクリ工場を転用したとしか思えんモスク(アラーは偉大と書いてある。噂だと公安の要監視対象)も見られます。 「霊界は存在する」by丹波哲郎 困ぺい糖 |
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date 2006/10/2(月)08:51 どぜうさま 今はわかりませんが、1980年代に北京で中国語を勉強すると北京外貿出版の教科書1種類で、その中に中共にしたがったベチューンの功業を記録した一節があり「白求恩」と表現されています。普通の中国人は「白」が姓だと思ってしまいます。 また、「求恩」で表意があるんですね。最後の香港総督パッテンは「彭定」でした。写真をみる前から、腹が膨張しているんじゃないかと想像しましたが、やはりそうでした。このように漢字は表意文字ですから、音に変えても問題が起きます。 でも現代中国人は、アメリカー美国、フランスー法国、ドイツー徳国、ロシアー俄国です。日本は米国(所詮農業国ヨ)、仏国(早く仏ニナレ)、独国(独りよがりナ!)露国(露骨なヤナヤツ)と大胆な表現を使い続けています。もっとも、これらのオリジナルは中国人がつくりました。中国人は変え、日本人はそのままなだけです。 別宮 |
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date 2006/10/2(月)09:12 シシィ様 楠木正成の武略が当時の水準以上だったのは確かなことだと思います。赤坂、千早の篭城という事実だけでもそれは十分評価に値します。 ただ、物語性というところで水を差しちゃいますが、太平記に載っている武勇談はけっこう中国の史書からのインスパイアが多いと言うのも確かなようです。城壁から煮えた汚物を落とすというのも十八史略にあったかと思います。 実は当時は文章家というのはそれだけで相当なスキルだったんです。武士は結構読み書きは出来たはずですが、実務上の事務スキルに限られたと思いますし、人を感心させる文章となるともっと書ける人間は限られると思います。そういう人たちは当時は漢文やそれ由来の知識が必須教養でした。 太平記については小島法師と学校でも教えているのですが、実際は写本、口伝の間にいろいろな書き加え、逆に削除もあったことでしょう。でも、楠木正成はスゴイは軸線として残ったと思います。 彼らが戦で死んだから名が残った、は、結構当たっています。やっぱり劇的なものがある人は印象に残ります。 >レイトショー ここに出入りされる虎姐さんはじめクリエイティブ系の人がよいもの書いて弾けてくれるのもいいですね。 困ぺい糖 |
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date 2006/10/2(月)09:26 MUTI様へ、 シシリーの戦況に付いての見解は御自身で調べて、確たるものを出されることを希望いたします。 私はシシリーの戦況は充分に混乱していた、正確に言えば、アメリカ軍の上陸戦闘で、アメリカ軍がもっともあせった状況だったと考えています。 太平洋の硫黄島や沖縄は、激戦でしたが実はアメリカ軍はそれほど追い詰められていません。 対して、シシリーでは敗北すればアメリカ軍師団は海に追い落とされる状況でした。 MUTI様の定義するところの、「彼我混交した戦況」とは具体的にはどのような状況を言うのでしょうか? med |
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date 2006/10/2(月)09:38 MUTI様、 MUTI> この一進一退状況で、防御に入ったときの米軍が行った戦術が、前回紹介した自軍の掩蓋陣地にたいする曳火射撃です。 私が読んだ資料では、中国兵がしらみのようにたかってくるので、これを潰すため、と理解していました。 定義の問題かもしれませんが、私の知るところの「浸透」戦術とは、分隊規模で部隊が敵の陣地を迂回して進撃していく物です。 中国軍が「浸透」戦術を全く行っていなかったとは、私も思いません。 中国軍が浸透戦術を主体としていたのであれば、多くの具体例が残っている物と思いますが、過分にして私は知りません。 med |
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date 2006/10/2(月)10:12 シシィ様へ シシィ> 後醍醐陣営には正成に代わる将はいない、となれば、正成が後醍醐陣営から去れば、どっちにつこうか迷っていた武士は、やっぱり、尊氏の陣営 ご指摘の通りで、どちらが勝つかという点は大きかったと思います。 ですから、湊川前に楠木勢が寝返ればそれなりの影響があったものと思います。 ご指摘のように、後醍醐天皇側の総大将は新田義貞でした。 そして、武将としての評判もそう悪かったとは思えません。 後醍醐天皇としても、新田義貞と楠木正成の意見では、それが特に大規模野戦に対するものであれば、前者の意見を採用するのが、指導者としては妥当でしょう。 新田義貞の武将としての能力は、最終的に判断すると、確かに芳しいものとは思えません。 med |
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date 2006/10/2(月)11:19 ペルソナングラータさま 築地本願寺はヘンなんですが、場所が魚河岸の守護神のような場所で、寂れた方にいくと明治座ですから、見慣れると「なくてはならぬモノ」になります。とにかく、浅草にある本願寺別院より塀がない分、親しみがもてます。前庭が広く、防災も考えたんじゃないでしょうか。 ノイシュバンシュタインのグロテスクも洞窟を模していますね。今の首相公邸にも烏の死骸のようなのが四隅についていますね。でも、殺人事件・放火事件が連続したような建物(内部は相当薄気味悪いようです。ちなみにプライベート空間は和洋折衷)によく首相は住めますよね。安倍首相は松濤の自宅の方が数倍いいと思いますが、SPがうるさいのかもしれませんね。岸首相は246隔てた南平台(なぜかはす向かいに美濃部都知事、三木首相が住む。もちろん私邸)にいましたが売ったんですかね。 でも、グロテスクもラテン語からとは驚きです。カレドニアもラテン語でしょうね(最後にアがつくから)。ニューカレドニアはジェームス・クックがつけた、というより帰ってから書いた旅行記の地図に勝手に書き込んだものでしょう。ジーランドはデンマークの大島ですが、ネーミングに事欠いて、多国の地名まで利用してニュージーランドに決めてしまいました。この人、ハワイはサンドウィッチ諸島とかにしています。ニューカレドニアは仏領になりましたがヌーベルカレドニアンにして自国語とも相性がよかったのでは。 でもアイルランドのラテン地名ヒベルニアは利用してませんね。流石にスコットランド人というところでしょう。日露戦争の戦史を調べていると、韓国沿岸にはフィリップ島とかベーカー島とか、並んでいて現代韓国地名と全く一致しません(なぜか海軍は国際海図使用)。とにかく地名を政権が変わるたびに直すなよというのはありますね。 別宮 |
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date 2006/10/2(月)11:29 KT様へ KT>尊氏自身は妙に後醍醐天皇を尊敬していたらしいフシがあると感じるのですが、どうでしょう? 書き忘れていましたが、ここは私もそう思います。 まさか、後醍醐天皇があれほど現実認識能力に欠けているとは考えなかったのでしょう。 太平記の時代は、軍事的にみるといわゆるコマンドコントロールが出来ていないので、なんとも評価し図らいところがあると思います。 med |
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date 2006/10/2(月)21:01 med様 MUTI様 浸透戦術を外観上述べるとしますと、まず、仕掛ける側の兵の姿が見えず、音も聞えないが基本です。だいたい今でも大方の国でそうなのですが、1会戦分300発程度の銃弾と銃、刃物と手榴弾の他は3日分の携行食と水くらいで、これを小型の雑のうにしまい、しかも装具が触れ合う音を立てさせない(これが結構前線では耳に障り、敵に感づかれるもとになります)ように体に縛りつけて出動します。 そして、分隊(8〜10名)に分割してそれぞれが歩兵の進出可能な全縦深距離、8q内外を独自に浸透していかなければなりません。こうなると分隊長以下、今なにをすべきかと言う判断力を求められますし、小隊長クラスならせめて地図の読み方ぐらい知っていなければなりません。 なにが申し上げたいかと言うと、浸透戦術とは規模の大小問わず、訓練の良く行き届いた国の軍こそがよくなしうる戦術だということです。また、兵隊自身にもその訓練を受け止められるだけの資質が必要にもなります。少なくとも字が読めない、数が数えられないはマズいわけです。 朝鮮戦争時の中国軍にはこの要素が欠けていました。したがって、現象面として、チャルメラを鳴らして平押しするという戦術しか取れなかったと思います。当時の中国兵の文盲率というのは、詳しい数字はないですが、恐るべき水準だったと、その6年前に戦っていた日本側の記録から類推可能です。 朝鮮戦争で浸透されたという場合、逆襲されて戦線後方に取り残された中朝兵が匪賊化したのをそうだと見誤った例が多いと思います。これの鎮圧に後詰めの韓国軍が苦労したのは確かです。ただ、村落に住民ごと弾の雨を浴びさせるというようなことをしてますから、これが最近になって現地で問題になっているようですね。 困ぺい糖 |
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date 2006/10/2(月)23:18 別宮様、困ぺい糖さま いつも私のつまらないおしゃべりにお付き合いいただき、申し訳ありません。 伊東忠太ですが、建築のほかにも、妖怪研究が専門だったようです。(東京帝大の教授のクセに…) おかげで、彼の建築には、グロテスクな妖怪、奇獣が建物のいろいろなところに隠されているとか…。 築地本願寺、正面はパンチがありすぎで、個人的には引いちゃうんですが、左右翼の処理など、なんとなくアンコールワットみたいで面白いですね。(写真のみで、実物を見てないので、これ以上コメントは出来ませんが…) 表慶館のほうは、辰野金吾の日銀大阪支店のドームとちょっと似ている感じですが、たぶん同時代だからですね。(お役所的流行使いまわしモード…) 表慶館のほうが丸みを帯びていて、窓が埋められているのにたいして、日銀大阪支店は四角い印象ですが、銀行の建物はいつも無駄なまでに威張って偉そう… 兵隊の幽霊が出るという首相公邸、いまインターネットで確認しましたが、鳥はフクロウ、ほかにカエルや猫もあるそうで、どうやら「官邸を守る」ためのおまじないの一種のようですね。関東大震災以降、アジア主義とともに、どうもオカルト趣味も息を吹き返してきたのかもしれません。「帝都物語」の世界ぢゃない、っちゅうのに… (旧首相官邸バーチャルツアー) 日銀大阪支店 おまけ 失礼しました。 |
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date 2006/10/3(火)09:07 ペルソナングラータさま 築地本願寺、首相官邸ともに震災復興事業です。本願寺は、ともあれ(東京市民の木材調達困難を考えて)石材でつくり、延焼防止のため(墓地は禁止で、郊外に分譲墓地をつくる)空き地をつくるという善意が前提だったようです。 でも、木造でなく石造で仏教寺院をつくれといわれると、けっこう難問ですよね。それで、あんなシュールな建物になったのでしょう。ただ、以降どこも真似しませんから、失敗作でしょうか。ただ、震災の結果、東京市内で表面木造の家は、住宅地(西片・赤坂・高輪など)を除いて全面禁止になり、防火地域ということで、モルタル塗りというのを強要されるようになりました。 このため、完全木造の家は原則なくなりました。江戸・明治期の商家などはこのときほとんど取り壊されました。上野の桜木町に酒屋が1軒残っていますが、移築し、東京都重要建造物になり、土日には見物客が集まるありさまです。京都加茂川べりの江戸期の町屋を外人の先生が買い取り内装を施し、鴨川に縁台を張り出して夕涼みしているのには驚きました。東京だと全部「文化財」になってしまいます。ともあれ江戸期の建物は、みな区だか都だかが看板を出しています。そのわりに火事を出す寺とか多いですけれども。 話が変わりますが、明治だと首相官邸に機能がないためか、けっこう私邸で閣議がひらかれました。有名なのがいくつかありますが、山形有朋別邸だった京都の無隣庵会議が有名です。1903年4月21日ですが、外務省の「外交年表並主要文書」に記載されているだけで、詳細は不明です。だいたい、元老・首相・外相・陸海相が出席しますが、当時首相・外相のスケジュールは機密で公開されていません。 ところが無隣庵は、初め木屋町にあって、それから現在の南禅寺際にうつったとされます。京都市が現在、無隣庵を管理している(拝観料が高いうえ抹茶がまずいので、誰もこないという評判)ようで、また市は現在地で開催されたようにパンフレットに書いていますが、どうも辻褄があいません。また海相(山本権兵衛)のスケジュールは公開されていますが、当時、木屋町吉冨を定宿にしています。どうも木屋町でひらかれた気がするんですが? ただ、現在の無隣庵は、1エーカーサイトに洋館と庭に面した和風建築ですから、雰囲気は英国首相のチェッカーズに似ていますね。重要閣議は、明治のひそみに習って、使用人である官僚などいれず、こういうところで、泊り込みでやった方がいいと思うんですが。 別宮 |
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date 2006/10/3(火)10:07 ペルソナ・ングラータ様 別宮様 詳しい説明をありがとうございます 受験に失敗した事(才能を受け入れてもらえなかった?) |
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date 2006/10/3(火)11:06 ロックさま ヒトラーは20世紀でもっとも著名な人物であったことは疑いありません。ただ、その死より60年たった今、ようやく歴史的人物になりつつあるところでしょう。また、ヒトラーの行動は研究されつくしており、新たな筆跡が現れればそれだけで高額で取引されることになるでしょう。つまり、新事実はもう出ないだろうということです。 まず、ヒトラーは偉大な政治家、チャーチル・FDR・吉田茂のような人物ではありません。この4人の親はいずれも著名人かつ金持ちであり、「二代目」です。そして、保守的政治家で偉大な人物は(女を除けば)だいたい二代目または三代目です。 つまり系譜として革命家の部類であって、レーニン・毛沢東・宮本顕治のグループに属します。革命家は「党派」を自ら起すことに特徴があります。多くは、既存党派から分派となり、新党を結成することになります。この段階でリーダーとして仰がれるためには相当に自分の思想に自信がなければなりません。そして、その自信はその死まで続きまず揺るぎません。それゆえ年をとっても永久革命を呼号し、大量殺人を引き起しやすいのが特色です。 ヒトラーが革命的信念を獲得したのは1919年のミュンヘン革命の最中だと思います。30歳であって、異例なくらい遅いといえましょう。したがって、それ以前のヒトラーを調査するのは、結論としては、あまり有益だと思いません。例えばウィーン時代の絵は「個性」はありません。むしろ、1920年以降の絵にこそ信念につながるものがあるでしょう。 またヒトラーの夢についてですが、レーニンや毛沢東、宮本顕治の政策などゴミかそれこそ悪夢のようなものであって、現代につながるものは何もありません。ですが、ヒトラーの政策、高速道路・植林事業・ウィンターヒルフェ・労働福祉政策はてはワンダーフォーゲルなど、みな楽しむなり享受しています。単純な市場政策では現代社会は成立せず、何か公共投資ないし福祉政策、教育政策で補わねばならないのも事実です。もちろん外交政策における失敗は確かですが、これはその反ユダヤ主義とあいまって、「民族主義」の行き過ぎによるものでしょう。ヒトラーは非難されていますが、その政策は現代日本のいたるところに存在しているのも事実です。 別宮 |
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date 2006/10/3(火)13:51 別宮様 当時の社会背景 様々な環境がどうヒトラーに影響を与えたか 革命家が何かを作るのは頭の中の事で 現実は破壊することから始めると思います ヒトラーはドイツ人の望む夢をみさせた これは悪い事ではないと思うのです |
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date 2006/10/3(火)20:26 ロックさま 最後の点(ドイツ人のヒトラー支持)は、そういったことがあると思います。革命家として、レーニン、毛沢東、宮本顕治をあげましたが、このうちレーニンと毛沢東は成功しましたが、宮本顕治は失敗しました。これの原因は単純であって、共産主義はロシアと中国では政権獲得に成功しましたが、日本では(フランス・イギリス・イタリアでも)では失敗だったんですね。 これの原因が、民度であると考える人は多いようです。つまり現在一人当たりGNPが高い国では、共産主義はまったく政権に近づけませんでした。ロシア、中国では選挙がなかったのですが、それでも国民の(字の書ける)3割は共産主義を支持していたでしょう。 ところが、ドイツは民度という点で日米西欧ブロックに入ります。つまり、ヒトラーの反ユダヤ・反スラブといった外交方針をドイツ国民がなぜ支持したかという点です。ユダヤ人についていえば言語が同じで宗教が違うだけ、スラブ人についていえば言語は違うものの宗教は似たようなものです。そして歴史でもありません。ヒトラーは第一次大戦の仇敵であったイギリスに同盟を求め、日本にたいしてはじっさいに同盟を結びました。 我々には理解できませんが、当時のドイツ人はこういったヒトラーの政策を支持したんですね。ただドイツ国民がヒトラーの出自(オーストリアの税関吏の息子やウィーンを放浪した経歴、第一次大戦の戦歴)を好んだのではないと思います。この問題については汗牛充棟あらゆる面で分析されていますので参考にしてください。 別宮 |
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date 2006/10/4(水)00:54 別宮様 無隣庵ですが、わが出身高校の近くでして、おそらく1000回ほどは前の道を通ったのですが、恥ずかしながら中に入った事がありません… 1903年初頭において建物が完工していたのか、図書館で一度調べてみます。(それにしても、新撰組の屯所といい、都おどりといい、「お茶席」のセット販売はやめた方がいいですね… おどりのお茶席など、満員の部屋に通されて、実質二分で抹茶を一気飲み、即退場です。) 英国の家作りの方法は、けっこう日本人の趣味に近そうですね。(仏伊は大邸宅かアパート志向… お庭はモヒカン刈りですから…) 英国の首相公邸、ダウニングストリート10番地は、警備上少し気になるとはいえ、日本の首相公邸と比べてもけっこう過ごしやすそうです。Chequersは、英国の地理がよくわかりませんので、ロンドンからどれほどの距離にあるのかが少しつかめないのが申し訳ありませんが、けっこう何もないところだったと記憶しています。安倍首相は彼の別荘にこもりましたが、日本にも首相別邸があってもいいかもしれませんね。東京圏にはあまり遊休地もなさそうで、大変かもしれませんが… いっその事、無隣庵を接収して、別邸として整備してみても面白いかもしれません。(新幹線なら、2時間ちょっとでつきますし。) 昔、「鹿ケ谷の陰謀」の地、鹿ケ谷山荘の跡地を見に東山をさすらったのですが、山を3分の1ぐらいへとへとになって登った挙句、急坂の途中の猫の額のような土地にでかい記念碑が建っていました。山荘が三畳間なわけはなし、こりゃどう考えてもウソ…(こんなことなら、記念碑は下に建てておいてほしかった…) ペルソナングラータ |
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date 2006/10/4(水)09:32 皆様 次期国連事務総長に韓国の潘基文外交通商相がほぼ当確となったようです。 国連事務総長といえば、元オーストリア・ナチのワルトハイム、コンゴで死んだハマーショルドが思い浮かびます。 小国の人ばかりですな。 国連憲章の旧敵国、大日本帝国の一部だった韓国から選出できるというのもちと驚きです。 困ぺい糖@諸君私はネタが好きだ |
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date 2006/10/4(水)10:07 ペルソナングラータさま ナンバーテンダウニング(となぜかBBCのアナウンサーは呼ぶ)というのは、ビルの一室ですから、ちょっと情けない感じはありますよね。ただ、イギリス首相は1950年くらいまで、公用車がなく、専ら歩き(または鉄道+馬車)で移動していたようです。『ウォータールーブリッジ』(和名「哀愁」でしたか?)で、カーヌルだれ某と呼ばれ、ウェリントン・バラックスからウォータールー駅まで車で行き、ドーバーからフランスに出征していった、連隊長殿が描かれていますから、首相より扱いがよかったんですね。 どうも英仏独の出征というのは駅に行くことみたいですね。パリ・ノール駅とかベルリン・ツェントルム駅とかいうと兵靴の足音がします。 日本だと、かがり火がたかれた八幡宮社前で尼将軍が「天皇ご謀反」ナゾいって、京都に攻め上る雰囲気ですね。兵站どうなっているのかという疑問は残ります。明治に入っても、だいたい宇品から、仁川だの大同河口、花園口ですからみえないところで、兵隊が集まっている感じです。 源三位頼政公の鹿ケ谷山荘は地名の地にあったんでしょうか?以仁王の綸旨ですよね。でも、東山越えになって連絡悪いですよね。太平記とか、軍記モノではわかるんですが、歴史家が史料批判したあとの研究がほとんどないというのが、なんともいえません。戦国時代に入ると甲陽軍艦とかやたらと考証されているのもあるんですが・・・。ただ「皇国史観」批判とかで楠氏の調査などはやたらと行なわれています。 関西でいう「谷」というのは、「沢」つまり傾斜地でしょうか?それとも「谷戸」つまり傾斜地から降りた平地をいうのでしょうか? 別宮 |
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date 2006/10/4(水)10:34 困ぺい糖さま 小国というかはっきり言うと野蛮国が多いんですね。 まあそうなると小国が黙ってませんから、先進国は総退陣、G8で全部やればいいじゃん?ということになって糸冬 やーマジメな話これで日本人の国連信仰も少しは覚めるかもしれませんね。 SLEEP |
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date 2006/10/4(水)10:52 別宮さま 以前、御指摘になられた際訊ねようと思ったことなのですが・・・ 自分が運転免許を取った頃(10年ぐらい前です)聞いた話では日本の自動車に係わる諸々の税および道路料金が欧米と比べて高いのは、自動車道路整備のためでありこれは戦前からのモーターリゼーションがあった欧米各国との蓄積の差であって仕方がないという話でした。 だいぶ前なにかの番組で自家用車と比較すると大型車の方が道路に対するダメージは遥かに深刻、もっと公平性を考えろという話になったとき、とある評論家がそれをやると運輸関係のコストが上がって景気が悪くなるといったことを言ってましたけど、それは別問題だろと。 SLEEP |
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date 2006/10/4(水)13:46 困ぺい糖さま、SLEEPさま ニュースでも言われていましたが、前回アジアから選出された事務総長が、ビルマ出身ですからね… ハマーショルドのように、ヨーロッパの小国から選んでいた時代が、一番健全だったような感じがします。 潘基文については、これから、まず北朝鮮に対する圧力を強めて行かなければならない、というのが国連の目下の宿題である上に、日本の常任理事国化を私利私欲なく議論する、という、韓国の国家戦略とは正反対の方向の舵取りを強制されることになるでしょうから、面白いんじゃないでしょうか。韓国にとって自縄自縛にならなきゃいいですな〜。 ペルソナングラータ |
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date 2006/10/4(水)18:50 皆様へ 私は意外でもあり納得もしました 立候補した本人は以前 韓国の方針で日本の常任理事国入りに反対をした人物ですよねぇ? |